みさちのにっきちょう

ハイパムフィクサーというバンドのベースの人がどーでもいいことを書いています。Twitter@misachi_bass

雨が降って、そして晴れた

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今日は朝は雨が降っていたけど、午後はきれいに晴れた。大きな虹が出たところもあったらしい。

 

今年はどうしようかと思って、政府の募金窓口からできる限りの寄付をした。今年は去年よりは少ない金額だけれど、これから毎年できる限り続けていけたらいいなと思っている。金額はその時できる範囲でしかできないけど。少し、贖罪のような気分にもなる。懐かしんで語ることでもないと思うし、忘れないことが大事なことだと言うなら、この日だけは寄付をすることも、わたしなりの折り合いの付け方だと思う。だからこれでいいんだ。わたしには作ったもので何か出来るほどの力はない。だから自分一人でできる範囲のことをする。

 

この本を読んだ。

 

仝: selected lectures 2009-2014 (河出文庫)
 

この1年でこの本を読んだことはかなり大きなターニングポイントになった。この本は、著者の講義、レクチャーを本にしたものの中からいくつかをセレクトして文庫になったものだ。だから最後の章以外は、既に本になっているものの再録だ。最初はなぜこの本が出たのか分からなかった。しかし読んで意味がわかった。これは、震災後の講義、それを通した思考の歩みを追えるように、時系列に並んでいるのだ。これを読んだら、当時の自分の肌感が蘇ってきて少し震えた。あの頃、たくさん本を読んだ。たくさんの人がいろいろなことを言った。インターネットでは研究者や専門家と名乗る人が書いたものが洪水のように現れては消えて、否定されては、現れた。テレビを見てもなにも分からなかった。何年かしたら静かになった。そういうことを感じていた。著者の講義の中で、自分は専門家ではない、今から話すのは図書館に行けば誰でも調べられることだ、と前置きしてから話し出すことが何度かあった。だからか、わたしが思っていたことと書いてあることは似ていた。みんな分からなかったんだ。どうすればいいか分からなかった。

 

本当は危険なものだと知っていた、だけど、それを許していた。それがあることを許していた。それを恥じるべきだ。そして、恥じる気持ちからこそ、変えることができる。そんなことが書いてあった。内容は完璧に覚えていないからまちがえているかもしれない。だけれど、そのことにとてもショックを受けた。そうなんだ、わたしたちは知っていたのに、なにもしなかった。見ないようにしていたんだ。震災の後、人生で初めてデモに参加した。ベビーカーを押していたから、写真を撮られた。どれくらい歩いたか忘れたけど、大きな道路を練り歩いた。だけど、わたしにはなんだかそれが無意味なものに思えて、なぜか虚しかった。それからデモに参加することはなかった。飼い慣らされたデモに意味はあるのだろうか。なにか変えられるのだろうか。よく分からなかった。

 

つまりこうなったのは、わたしたちのせいでもあるのだ。それを恥じなければならない。それに気がついた。そういう一年だった。

 

おわり。