みさちのにっきちょう

ハイパムフィクサーというバンドのベースの人がどーでもいいことを書いています。Twitter@misachi_bass

葬式ほど身体を使わせる儀式はないよね

祖母が死んだ。

 

思ったよりも早く喪服を着ることになった。なんとなく予想はしていたからそんなに驚きはしなかった。なんだかここのところ喪服を着る機会が増えてきた感じがする。

 

葬式というのは、本当にこれでもかってくらい、身体を使わせる行為が多い。黒い服を着る。線香をあげる。数珠を持つ。焼香をする。棺桶に花を入れる。棺を閉める。そして運ぶ。焼かれた骨を骨壷に入れる。親族は通夜の後は夜通し線香をたく。やることばっかりだ。人が生まれる時も、結婚する時も、こんなに身体を使ってやらなきゃならないことが多い儀式はない。それくらい、身体を使って、これでもかと思い知らされないと、なかなか人が死んだことを実感して認められないんだと思う。葬式に行けなかった人、葬式に行かなかった人は、どこか死んだ実感がない。なんだかしばらく会ってないだけで、どこかで生きているきがしてしまう。だから葬式っていうのはよくできた儀式なんだな、などと考えたりしていた。いつも死は突然訪れる。それを認めさせるんだから、それは大変な行為だ。わたしはいつも、棺桶に花をいれるとき、ああこの人は死んだんだなと実感する。そして泣いてしまう。悲しいのかもしれないし、よく分からない。ただ、目の前のこの人は死んでいるだ、死んだんだ、ということに涙してしまう。自分の身体をつかって、やっと実感するんだ。実感して、認めないと、先には進めない。

 

最近はまた本を読んでいて、死についての解釈に関する様々な思考を知ったのだが、自分の死と、自分以外の人の死というのはまた別問題だなと思う。自分の死または死そのものについて考えることと、誰かの死を受け止めることを考えることは違う。人の死を受け止めることは、何度だって、いつだって、難しくて、つらい。同じ体験はなにひとつない。認めること、そこがスタートだけれど、そこからの道のりも長い。人間に対する感情はひとつではなくて、親しい人ほど、愛した人ほど、愛憎が絡み合っている。憎しみも、怒りも、愛しさも、寂しさも、死んだ人にはもうぶつけられない。自分で、ひとつひつとつ、紐解いて、然るべきところへ感情を納めていく。時間がかかる作業だ。

 

むかし昔、つらいことが多すぎて、そして伝える手段を知らなすぎて、死んでしまいたいと思っていた時もあった。でも今思うのは、死はなんの救済でもない。別に誰かを悪く言っているわけではないよ。昔、死にたいとか言ってた自分に、そんな暇があるならもっと本を読めと言いたい。もっと自分のために生きろと言いたい。目の前のことから目をそらすな、もっと読め、そして見ろ、目の前を見ろ。

 

いろんなことを思い出している。もう会えない人達のこと。

 

おわり。