みさちのにっきちょう

ハイパムフィクサーというバンドのベースの人がどーでもいいことを書いています。Twitter@misachi_bass

ずっとなにかを書くのが怖かった

冬が来た。

 

本を読んだ。悲しみが深い。

本当のことは言葉にするのが怖い。だから黙ってしまう。言葉にできることならば、すでに解決している。のだと思う。言い表せないことほど、大切なことだ。なにも書けないままの日々が続く。言葉にすることは、認めることで、受け入れることでもある。認めたくないことはたくさんあって、それでもさよならできないことばかりだからタチが悪い。

 

ある意味で、わたしはわたしの周りの人を巻き込んでいるのだから、責任があると思う。何も無い人間を、わたしという虚無を、信じてくれたことに、わたしは報いないといけないとおもう。もしわたしが逃げたら、どうなるだろう。自分で決めたことなのに、逃げたい時がある。普通に生きることができたら、どれだけ、いいだろう。楽になれるだろう。己と対峙することは、どれだけ苦しいことだろう。情けを請いたいわけではないけど、こんなことを書いてしまう自分が恨めしい。わざと知らない振りをする。そんなことばかり。

 

無知はある意味でとてつもないパワーだと思う。生きることに、知ってしまう。知ることは、得ることは、素晴らしいことのはずなのに、知がわたしを縛り付ける。

 

真ん中はどこにあるのだろう。どうしてみんな笑っているのだろう。わたしの頭がおかしいのだろうか。そればっかり考える。だけど、そうもなりたくないと軽蔑している。どこかで見下されているとわかって、どこかで見下している。お前は知らないだろう。そうやって、平らな地獄を生きるんだろうと見下している。なんとも最低で、みずぼらしい。これが嫉妬なのか。

 

真理に近づくには正気を失うとして、それでも見たいものがあるかと問われれば、わたしは見たい。わたしは誰のためでもなく、わたしのために生きているのだから、知りたいものを知るために生きていてもいいのではないかと思う。ひとりぼっちだったらどんなによかっただろう。ひとりならば、自分のためだけに生きることができた。いつも罪悪感と隣り合わせだ。どうして、わたしはわたしが知りたいことを知りたいだけなのに、、色々なものに縛られているのだろう。

 

例えば映画や小説はあるひとときを切り取る芸術だとして、そのあとはどうなるのだろう。生きることは、ずっと続いていくし、過去は消すこともできない。そういうものを背負って生きていくのだと思う。ひとつひとつ、理不尽なものを抱えながら、それでも、みっともなく、生きていくのだと思う。

 

だけど、今は変えることができる。与えられたスタートがマイナスだとしても、取り返すことはできる。受け入れることは、とても苦しいだろう。許すことは、とてもむずかしいだろう。それでも、過去より未来を信じるためには、立ち向かわなくてはならない。どうして自分だけが与えられなかったのだろう。どうして自分は欠けているのだろう。見ることは苦しい。認めることは残酷た。

 

わたしには何かを救えないけれど、せめてわたしだけは救いたい。だから、生きてる。諦めたくない。手放したくない。自分の力で取り戻せると、信じていたい。

 

おわり。