みさちのにっきちょう

ハイパムフィクサーというバンドのベースの人がどーでもいいことを書いています。Twitter@misachi_bass

話す相手を探している

下書きばっかり貯まる。

 

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どうしようもないことばかりあって、その中で、ほんの少しだけの楽しい事を、大切に大切に、すくい上げながら、やっている。そんなに絶望していないけど、そんなにハッピーでもない。それでも全ては自分自身であると思うから、出来るだけ、良いと思うチョイスをしたい。そうやって目の前を選んでいるだけの毎日。

 

きっとみんなそうやって生きているのだと思う。きっとみんな、絶望とハッピーの間を行ったり来たりしながら、やっているのだと思う。淡々とした日常なんてものはなくて、生きているということはとてつもなくしんどい。わたしだけがしんどいわけではない、のではないかと思う。誰しもが、それぞれの重荷を背負っているのだろう。知りませんけど。

 

たまに、真理のような、なにか、根元のような、なにか、そんなものに近づいてしまうことがあって、それは誰しも経験したことがあるのではないかと思うけれど、全てに接続されている感じ、全てを知るような感じ、それをまた見たいと思ってしまう。例えば、夏の日の夕暮れとか、例えば、眠れなかった夜の白みがかる空とか、真夜中の冷たい風とか、そういった類のもの。あるいは、鳥肌が立つような音楽とか、涙がこぼれるほど美しい映画とか、そういうもの。そういうものの隙間に見えるもの。それが見たい。自分の力で見たい。与えられるのではなく、自分でこじ開けたい。その先にあるものを見たい。などと思ってしまう。世界の皮膜を剥ぎ取ることは恐怖だ。すべてを見るということは、すべてを引き受けるということだ。得てしてクレイジーだ。だけど、見たい。そういう類の人間なのである。

 

しかしながら、大人になって学んだことは、個人的なものと、全体的なものは繋がらないのだ。急に世界を救えないし、急に世界をかけて闘うことはありえない。少しずつ、扉を開けていくのだ。外の扉をあけ、内の扉をあけ、少しずつ近づいていく。すぐには答えはないのだ。たぶん。いつまでも永遠に似たものを追いかけている。あの日見たものを、また見たいと願ってしまう。いつまでもこどものまま。この実験はいつまで続けられるのか。

 

世界の終わりがあるとして、なにを飲むか。わたしは、冷たい水だ。冷たい水で乾杯したい。

 

おわり。