みさちのにっきちょう

ハイパムフィクサーというバンドのベースの人がどーでもいいことを書いています。Twitter@misachi_bass

コンタクトをして見る世界は見えすぎている話

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初めてコンタクトをしたのは大人になってからで、車の免許を取りに行くためにコンタクトにしたのだ。20代の後半の話。初めてコンタクトをつけたら、びっくりするくらい何もかもがよく見えて、今までぼんやり見えていたものの細部が目に飛び込んできて、頭がクラクラした。左右の視力が違ったから、それをきちんと補正したからかもしれないし、それまで使っていたメガネがずいぶん古いものだっかからかもしれない。それに普段は裸眼で過ごしていたし。眼科の先生はそのうち慣れますよと言っていたけれど、コンタクトをする度に頭がクラクラする情報量の世界になるもので、それからはほとんどコンタクトをしなくなってしまった。車の免許を取ったけど、運転する時はいつもメガネだ。(メガネはそののち、きちんと度数があっているものに作り直した)

 

街の中はあらゆる情報で溢れているのに、わたしたちはそれを自動的に必要なものと必要ないものを認識して見たいものだけ見ている。と、思う。だけどコンタクトをすると、すべてのものが情報を発信してきて、その細部が主張してくるから全部を無視出来なくなってしまう。きちんと見ると、街は情報だらけで、視覚的な情報もあるし耳からの情報もあるし、これを全部フラットに受信していたら頭がパンクしてしまうと思う。コンタクトをしてからそんなことに気がついた。

 

たまに、コンタクトをしてなくても、それに似た状態になることがあって、文字を見すぎたりすると意味がわからなくなるゲシュタルト崩壊ってご存じかと思うのだが、それが町中で起こったりする。ふと、いつもの景色なのに、すべてが主張してきてクラクラしてくる。街の色、文字、人々、音、そういうものが一気に自分に流れ込んでくる感じがすることがある。こんなところでよく正気でいられたなと思うし、ずっとこのままゲシュタルト崩壊していたらわたしは正気ではいられないとも思う。

 

景色がゲシュタルト崩壊するとき、実はわたしは真理のようなものに近づいているのではと思うことがある。逆に考えれば、普段の自分はあまりにも鈍感なのかもしれない。見たくないものを自動的に排除して見ていないのかもしれない。それがなくなって全てをフラットに受け止めるというのは、感受性というか感覚みたいなものが全開で働いているのでは、などと思う。ここら辺まで来ると既にちょっと危ない人だなと我ながらに思うのだけど、哲学者とかそいう人達はこういう風に限界まで考えて考え抜いたのだろうなと思ったりもする。こんな状態でいたら正気でいられそうもないけど、何か今見えていないものが見えそうな誘惑もあったりして、なかなか面白い。

 

そんなはなし。

 

おわり。