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みさちのにっきちょう

ハイパムフィクサーというバンドのベースの人がどーでもいいことを書いています。Twitter@misachi_bass

「野獣死すべし」をみた(わたしのラストシーンの解釈について)

 

野獣死すべし

野獣死すべし

 

 

松田優作の作品はだいたい見たんだけど、わたしが一番好きなのはこの「野獣死すべし」なのだ。

 

あらすじ。

 ハードボイルド作家大藪春彦の同名小説を1959年の仲代達矢主演作につづき再映画化。遊戯シリーズのコンビ、村川透監督、松田優作主演。伊達邦彦は、通信社のカメラマンとして世界各国の戦場を渡り歩き、帰国して退社した今、翻訳の仕事をしている。普段は落ち着いた優雅な日々を送っているが、戦場で目覚めた野獣の血が潜在しており、また、巧みな射撃術、冷徹無比な頭脳の持ち主であった。ある日、大学の同窓会に出席した伊達は、その会場でウェイターをしていた真田に同じ野獣の血を感じ、仲間に入れ、銀行襲撃を企む。

 

あらすじはこんなかんじね。普段は勘弁で内気な会社員、ところが中身は猟奇的でクレイジーな野獣であった、的なやつよ。伊達は通信社時代に戦場での惨事を目の当たりにして、心の傷を負ってしまったというか、死に取り憑かれてしまったって感じかしらね。

 

まずね、とにかく松田優作の狂気っぷりがやばい。10キロ減量して4本奥歯を抜いたというところからしてヤバイ。他の作品の松田優作とは雰囲気が違うのよね。細くて長い手足、虚ろな目、すごいのよ。ほんと。見てほしいわ。

 

それでこの映画といえば、ラストシーンの解釈がいろいろ話題になりがちね。

 

本作の場面描写には抽象的な点も多く、特に結末は現在でも日本映画における難解なラストシーンのひとつに数えられている。解釈には「待ち伏せていた警察隊により狙撃され死亡した」「伊達の狂気が生み出した幻影」「突発的にフラッシュバックを起こし、錯乱した」など諸説あるが、公式に明示された例はないため、結論は得られていない。

 

ラストシーンは、伊達が居眠りから覚めるとコンサートホールにひとりぼっちでいる。外に出たら、自分が殺したはずの刑事が血を流して立っていて、そのあと撃たれたみたいに倒れる。そんでカメラが引いておわり。

 

映画っていうのは必ずしもすべてが収まり良く繋がる必要はないんじゃないかなとわたしは思っていて、繋がりはなくてもそれぞれのシーンに意味があって、意味があるからそのシーンがあるんだろうなと。

 

それでまぁわたしなりに解釈するとしたら、伊達は戦場で「死」というものに近づきすぎてしまい、死ぬことや殺すことの(ある意味での)魔力に魅せられてしまったのであろうと思う。それで、人を殺すことに快感を覚えてしまったり、節操なく人を殺していくんだけど、最終的に「自分が殺されること」自分が「死」を味わうことに興味を持つというか行き着いたのではないかなと思う。それで、戦場で撃たれたようなフリをしてみた。あるいは、本当に撃たれたかもしれない。それで、自分の死をもって最高の快楽を得て、野獣は消えた。みたいな。感じかなぁ。

 

夢オチっていうのは確かに解釈としては収まりがいいけど、それじゃあまりに味気ないよね。あれだけの狂気の演技が夢オチで片付けられるのは寂しいわ。どこかからか伊達の狂気による妄想がはいってるっていうのはわたしも採用したいところだけど、どこまでが実際に起こったことでどこまでが妄想かはそんなに重要ではないのではないかな。戦争や殺戮から遠いところにいる「わたしたち」と、それを間近でみてしまい心に傷を負った「伊達」の対比みたいなものが主題ではないかと思う。まぁハードボイルドだ。

 

とにかく面白いのでおすすめ。

 

おわり。